2013/10/28 Mon
なん年ぶりかで区役所の窓口に来られたケアマネさん。たしか6~7年前に同じカウンターで涙を流されたことがある。
今日は「わあ、久しぶりですね~」とにこやかだったが、その時は、必死にそして涙ながらに訴えられた。
難病で全身麻痺し、わずかに動く左手でパソコンを操作している利用者さん。
「 朝ヘルパーが訪問した時、体調と気分がよかったら、その場で判断して散歩に連れ出したい」
「そんなケアプラン認めていただけませんか?」

というような訴えだった。当時は、ヘルパーの散歩介助は完全に「❌」で、大阪府も堺市もコチコチの対応をしていた。
「個人」としての私は、この対応には反対していたが、「市職員」として仕事で対応するには「市」としての立場でしか言えない。本庁にもかけあってみた。「利用者の状況から判断して散歩介助は最適と考えられる。何とか認められないか」食い下がったが、答えは「NO」。仕方なく、そのままケアマネさんに答えた。
そうしたら「こんなに一生懸命生きておられる利用者さんに、わずか20分ほどの散歩もさせられないなんて、何のための介護保険ですか!」「もうこの利用者さんは長くないんです。時間がないんです!」と涙を流して訴えられた。
私は、ケアマネさんに詰め寄られながらも「役人は情けない」と思ったものだ。
利用者のために、ここまで怒って涙を流せるケアマネってすばらしい、と心底 思ったものである。

これが原動力になって、当時の「散歩もダメ」「通院帰りの寄り道もダメ」という 大阪府の「訪問介護Q&A」を撤回させる運動に取り組んだ。
そして2年後、大阪府は私たちの要求を認め訪問介護Q&Aは全面的に書き換えられ、国も厚生労働省が散歩介助を可能とする通知を出すにいたった。

今日は、笑顔いっぱいのケアマネさんだったが、私は、利用者のために流したこのケアマネさんの涙は忘れることができない。
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Category: 雑感・雑記
2013/10/27 Sun
 全国一元気で、先進的で がんばっている京都のヘルパーさんたち。
 私もここ数年は毎年参加させていただいている「ホームヘルパーのつどいIN京都」が今年も開かれます。

 震災・原発のなかで頑張った福島のヘルパー 阿部純さん(現在はケアマネ)が記念講演されます。阿部さんはシンガーソングライターでもあります。
 私も楽しみです。

 午後の分科会では、私も介護保険見直しと軽度者外しでお話させていただく予定です。他にもここでしか聞けない魅力的な分科会メニューがいっぱいです。

 ヘルパーのみなさん、ケアマネのみなさん、そしてすべての介護関係者のみなさん、京都に行ける人はぜひご参加ください!


第14回ホームヘルパーのつどいIN京都2013

開催日時:2013年11月10日(日)午前9:30~16:30

開催場所:キャンパスプラザ京都(京都駅前)

参加費:京都ヘルパー連絡会会員¥1000円
    一般参加費¥1500円
*介護実技講座のみ、¥500円の追加料金が発生します。

お昼のお弁当¥600円の予定*事前申込者のみ。

今年のテーマ
「その人らしい暮らしを支えるホームヘルパー、今その原点を見つめる」
―震災・原発・軽度者外し・生活援助の時間短縮―


記念講演
「震災・原発という中で、利用者を支えたホームヘルパー」
報告者:阿部 純さん
(福島県在住、ケアマネ・シンガーソングライター)

サプライズ企画「当日のお楽しみ…」

午後分科会

①認知症「毎日がアルツハイマー映画上映会」と、交流
②介護保険改正と軽度者外し=日下部雅喜
③震災・原発という中で利用者を支えたホームヘルパー
阿部純さんを囲んで…ヘルパーの役割を考える
④サービス提供責任者の役割=小川栄二さん
⑤介護実技講座=鎌田荘平さん

詳しいお問合せ先は、(京都ヒューマンユニオンセンター気付)

京都ヘルパー連絡会事務局 TEL:075-813-2028

Category: 介護保険見直し
2013/10/19 Sat
 京都で毎月行われておる「マイケアプラン研究会」の例会にお招きいただいた。
 
 1999年に京都で発足し、『マイケアプランは高齢者の権利宣言』と高らかに宣言され、
  私たち市民一人ひとりが「自立と自己決定」に真剣に立ち向かう時代、それは日本では介護保険実施と共にやってきました。 介護保険の基本精神は、自立と自己決定。すなわち介護サービスは、私たち利用者が自分で自由に選び、自分の責任で利用するものです。それならば、利用者の生活プランともいえるケアプランは、利用者が自分で作るのが基本ではないだろうか。
 こんな、とてもシンプルな発想から生まれた研究会である。

 実は、私もささやかながらこの研究会に少しだけお付き合いさせていただいた。
 
 最初の出会いは、2006年4月である。2006年に実施された介護保険改定で、新予防給付が導入され、要支援者のケアプランが「介護予防プラン」になり、地域包括支援センターにゆだねられた。
 「ケアプラン難民」への不安と、「ケアマネジャーが選択できない」「一方的に予防目標が押しつけられる」などの事態を想定して、大阪社保協主催の「マイケアプラン(自己作成プラン)」緊急学習会を開催した。このときこのマイケアプラン研究会代表の小國英夫先生を講師にお招きしたのがきっかけである。
 
 その後、マイケアプラン研究会が発行された「私にもつくれます マイケアプラン」という冊子にも原稿を書かせていただいたことがある。

 そして、今回の介護保険見直しである。

 10月18日の研究会例会で、私は「介護保険見直しと私たちの課題」と題して1時間ほどお話をさせていただいた。
 とくに「要支援者の保険給付の廃止」「所得によって2割負担」については、マイケアプランをすすめる方にとっても、重大な問題である。

 思えば、2006年の介護保険改定実施の「新予防給付」が私とマイケアプランの出会いであった。今度の介護保険見直しは、その予防給付を「廃止」して、地域支援事業に全面移行させようというのである。

 厚労省は「ケアマネジメント今まで通り」などと強弁しているが、「地域の実情に応じて」となっている。

 「真の利用者本位」をめざしてはじまったマイケアプラン運動は、介護保険大改悪の中で新たな試練に立たされている。






 
Category: 介護保険見直し
2013/10/18 Fri
 10月16日午前に予定されていた社保審介護保険部会第51回会合は、台風ため「中止」となった。
   厚労省 第51回社会保障審議会介護保険部会の開催中止について

 「延期」かと思いきや、「中止」なので、開かれるのは次回(第52回)の開催予定日(10月30日)になるという。
 10月2日の第50回介護保険部会まで6回連続で介護保険見直しの具体案はすでに全部出されているので、残りの検討日程はこうだった。
 
第51 回 10 月16 日(水)9 時~12 時  更に議論が必要な項目について①
第52 回 10 月30 日(水)14 時~17 時  更に議論が必要な項目について②
第53 回 11 月14 日(木)12 時~15 時(調整中)とりまとめに向けた議論①
第54 回 11 月27 日(水) 9 時~12 時    とりまとめに向けた議論②

 
 あとたった4回で「とりまとめ」予定だったのを1回飛ばしてしまうのでろうか。
 しかも、10月16日の第51回では、要支援者の切り捨て(「予防給付の見直しと地域支援事業の充実」)について具体的内容や移行計画案が示される予定であった。
 これも公表せぬまま10月末まで引っ張るなどとんでもない話である。

 私は、いっそのこと介護保険部会など永久に「中止」し、これまで示した改悪案はことごとく撤回して、一から現場と利用者の声を聞いて介護保険改革を検討し直したほうがよいと思う。

 そんな中、大阪社保協は、10月16日夜、介護保険改悪反対運動の本格的にスタートさせる学習決起集会を大阪市内で開いた。
 10.16学習会
 
 私の基調報告では、
「学び・知るだけでなく、考え・行動する学習会」を合言葉に
①社会保障税一体改革と介護保険改悪、②介護保険制度改悪の主な内容、③介護保険の根本問題と改革の方向、④行動するときは今!私たちの展望 
 について報告させていただいた。
 10,16学習会資料


 

 
Category: 介護保険見直し
2013/10/13 Sun
 長らく「堺市長選」モードで、とくに9月はほとんど介護保険モードにならなかった。

 10月10日夜、大阪介護ウエーブ学習会に参加し、社保審介護保険部会委員として唯一の利用者代表の立場で活躍されている勝田登志子さん(認知症の人と家族の会副代表)のお話をうかがった。
大阪介護ウエーブ学習会看板

勝田登志子さん

 社保審介護保険部会の実態は、は勝田さんによれば「怒涛のような改悪提案」。
 8月6日に社会保障改革推進国民会議報告書、8月21日に社会保障改悪プログラム法案閣議決定を受けて、8月28日から再開された社保審介護保険部会は、これまで5回開かれたが、要支援者の保険給付外し、デイサービスの切り捨て、特養ホームの軽度者切り捨て、一定の所得者の利用料負担2割への引き上げ、低所得の施設利用者の食費・部屋代補助の改悪など、これまで、慎重論・反対論が多く「両論併記」になった改悪案が次からつぎへと出されている。委員の大多数は「容認」「賛成」の立場で、10月2日の介護保険部会で示された「介護保険部会におけるこれまでの主な意見」は、さらにその中から厚労省に都合のよい意見を列記し、勝田さんの反対意見はほんの少ししか書かれていない。
 介護保険部会におけるこれまでの主な意見・未定稿
 
 「認知症は初期のまだ軽度な内が本人も家族も一番たいへんな時期。それを介護保険給付から外すなんてとんでもない!」
 こうした意見に、まったく耳を傾けない、介護保険部会の委員たち。

 学習会の後の勝田さんを囲む懇親会では、この間の孤軍奮闘ぶりとともに「本当に悔しい」という怒りの声も伺った。
 この間、勝田さんの奮闘を支える取組が大阪でも十分できていないことを反省させられた。

 そして、翌日(10月11日)は、長野県飯田市で、飯伊民医連介護ウエーブ推進委員会の学習会。午後から休暇をとり、新幹線と高速バスを乗り継ぎ、飯田市鼎文化センターの到着。
 「介護保険制度はどう変わる?」のテーマでお話させていただいた。

飯田学習会看板
 
 参加者の皆さんからは次から次へと質問。一番印象的だったのが
 「介護保険部会で孤軍奮闘されている勝田さんを励まし支えるにはどうしたらいいですか」
 との質問だった。
 私の答えは、
 「厚労省や介護保険部会事務局へのFAX・メール、要請はがきなど現場の声を送りつけること、議論されている内容をみんなに知らせ、発信していくこと、これにつきます」
 とさせていただいた。
 さらに、ある参加者からは
 「改悪の内容はよくわかったが、これから阻止できますか?」
 という質問。
 私は、「これからの世論の広がりようと、消費税・TPP問題など現政権の抱える国民との矛盾で、どこまで追い詰められるかによります。これだけひどい改悪を国民が知らないうちに通してしまう。こんなことがないように、どれだけ運動が広がり、追い詰めたかで結果は決まってくる」とお答えした。
 飯田学習会参加者


 開けて10月12日は、川崎市のNPO法人コスモスの家の設立25周年記念講演会。
 飯田市を朝7時半に高速バスに出発。予定では11時半ごろに新宿着で、開会時間の午後1時30分には1時間以上の余裕があった。ところが、中央道が府中市あたりで渋滞し1時間半くらいバスが全然進まなくなり、新宿着が大幅に遅れ、会場着が2時になってしまった。主催者の方の機転で、スケジュールを逆にして進行していただいたおかげで何とか間に合った。
 2時間かけて「2025年介護保険はもう使えない?~今からでも遅くない、老後を守るためにできること」のテーマでじっくりお話させていただいた。
 川崎学習会看板
 ここでも、参加者の方から、財源問題や、特養入所問題についていろいろな質問が出た。川崎市では、主催したNPO法人が中心になって「介護保険制度をよくする会」を発足させ、国会への請願署名、川崎市への署名を取り組むことをすでに決められている。学習会では「介護保険制度を改悪させないために、私たちが今できること」というアピールも採択された。
川崎学習会参加者

  
 川崎からの帰り道の車中で綴った私のフェイスブックの一文 
 「各地で頑張っておられるみなさんとの知り合えたり、交流出来ることはとてもありがたいことです。今回の教訓。移動の経路と交通手段は万全を期すこと。特に首都圏の高速道路は甘く見ないことです。反省することも多いですが、今後もがんばります。残念ながら、現時点で、急進行する介護保険大改悪の内容と狙いを語れる人はそう多くはいません。私のような浅学非才の徒でも少しは役に立てる局面です。国民にほとんど知らされないまま、進められる介護保険改悪の危険性を一人でも多くの方に知っていただき、運動が拡がるならば、全国どこへでも出かけて行くつもりです。」

 10月10日~12日の3日間でやっと、介護保険モードにスイッチオンできた。
 残された時間は少ないが、これから年末まで、私は介護保険モード全開でがんばる決意です。

Category: 介護保険見直し
2013/10/12 Sat
 給付抑制へ、世論誘導図る厚労省。10月11日付けの日経新聞1面トップである。
 要支援認定者に対する介護保険給付(予防給付)を3年間で全廃し、「要支援事業」なるものに移す。NPO、ボランティア等の活用で安上がりにし、さらに、費用額について「事業ごとの上限」を設けて上限管理を行う。まさに徹底した削減である。
 ところが日経新聞にかかるとこのような記事になる。
日経新聞介護記事

 
 ご丁寧に「削減効果」のグラフまで厚労省資料を加工して掲載している。
 日経グラフ
 
 これは、10月16日開催予定の第51回社保審介護保険部会での厚労省案のリーク記事だ。
 この記事は、厚労省の説明そのままに、
 「介護が必要と認定された人のうち、症状の軽い要支援者(現在約150万人)向けサービスを15年度から3年かけて市町村が運営する事業に移す。」
 「市町村移管後も要支援者が従来利用してきた介護サービスはそのまま使えるよう配慮する。要支援の認定やサービスを受ける計画(ケアプラン)作りも従来通りとする。」
 と、要支援者に対するサービスが保険給付から廃止されても、そのまま利用できるかのように描き出したうえで、「掃除や洗濯、買い物など家事の手伝いにホームヘルパーを使ったり、同世代との交流でデイサービスに通ったりといった過剰な介護サービス利用は見直す。 」と、ヘルパーの家事援助やデイでの交流が「過剰サービス」であると決めつけている。
 地域支援事業に移され、費用額の「上限管理」ができることを「事業費がむやみに膨らまないよう、厚労省は政令で上限を設ける」と、評価するなかみとなっている。

 国民に介護保険改悪内容が知られていないことをいいことに、まだ、社保審介護保険部会が開かれる前から、こんな翼賛記事を書かせる厚労省のやり方はいかにも汚い。
 広がる「要支援者150万人の保険切り捨て反対」の声を打ち消そうと厚労省もあの手この手の攻勢である。

10月11日の日経新聞
介護費用総額に上限 軽度者対象、15年度から 厚労省案 
 厚生労働省は、介護保険サービスの費用の伸びを抑制する仕組みを導入する。症状が軽い人向けの介護予防事業を対象に2015年度から年間の事業費に上限を設け、75歳以上の高齢者人口の増加率並みの年3~4%に伸びを抑える。25年度には2000億円の抑制効果が見込まれる。高齢化の進行で税金や保険料による国民負担が膨らむのに歯止めをかける。
 介護が必要と認定された人のうち、症状の軽い要支援者(現在約150万人)向けサービスを15年度から3年かけて市町村が運営する事業に移す。市町村は毎年度の予算の中で、軽度の介護サービスをどれだけ提供するか決める。その際事業費がむやみに膨らまないよう、厚労省は政令で上限を設ける方向だ。
 上限は、介護の利用が増えてくる75歳以上の人の数と連動させる。軽度の介護サービスの費用は現在、75歳以上の人口の増加率を上回る年5~6%で増えている。市町村への移管当初は全国計で6000億円を見込み、10年後の25年度には従来の伸び率なら1兆円を超えるのを、2000億円少ない8000億円程度に抑えられる見通しだ。
 軽度の介護の事業費は税金と保険料からなる介護保険財政から支出する。介護全体でみれば1割未満で対象者数も3割弱だが、部分的でも給付の総額に枠をはめて管理する仕組みは珍しい。
 05~06年の医療制度改革では医療費の伸びを経済成長率の枠内に抑えるよう政府の経済財政諮問会議が提案したものの、医療界や厚労族議員らの抵抗で頓挫。かつての自公政権は07年度から5年間、社会保障費の伸びを年2200億円抑制する方針を掲げた後、高齢者などの反発で撤回した。
 厚労省が軽度の介護サービスの見直しに乗り出すのは、高齢化で介護費の膨張が加速しているため。自己負担も含めた総費用で13年度(当初予算ベース)の9・4兆円から25年度には2・2倍の21兆円に増える見込み。
 市町村移管後も要支援者が従来利用してきた介護サービスはそのまま使えるよう配慮する。要支援の認定やサービスを受ける計画(ケアプラン)作りも従来通りとする。
 市町村事業では訪問看護などのサービスは移管前とほぼ同じ基準で運営される。一方、掃除や洗濯、買い物など家事の手伝いにホームヘルパーを使ったり、同世代との交流でデイサービスに通ったりといった過剰な介護サービス利用は見直す。
 厚労省は、16日に開く社会保障審議会介護保険部会で素案を示す。来年の通常国会に提出する介護保険法改正案に盛り込む方針だ。


Category: 介護保険見直し
2013/10/09 Wed
堺史上400年ぶりの壮挙となった2013年市長選。
堺の歴史と共にそのエピソードを綴る。

第3話  仁徳陵と松井知事の電飾バチ当たり発言

 堺と言えば「仁徳陵」古墳。1600年前に作られ、歴史の教科書に必ず載っている。
 墳丘の長さ486メートル、三重の濠を含めた長さは840メートルにも達し、エジプトのクフ王のピラミッドよりも、中国の秦の始皇帝陵よりも大きい「世界最大の墳墓」である。
 
 私が毎日通勤で乗っているJR阪和線の百舌鳥駅と三国が丘駅の間は車窓からずっと仁徳陵のこんもりした姿を眺めている。また、下っ端の堺市職員である私はめったに使わないが、私の仕事用の名刺にも堺市のロゴとともに仁徳陵の写真を印刷している。

 仁徳陵

 この仁徳陵古墳を中心に44基の古墳がひしめいている百舌鳥古墳群は、堺市民にとって生活の場にある古代遺跡であり、町の一部である。
百舌鳥古墳群マップ



 しかし、「仁徳天皇陵」などは、宮内庁が現在の皇室の「祖先」の墓として管理し、「立入禁止」扱いにしている。 しかし本当は誰が葬られているか解明されていない。
 仁徳陵を中心とする百舌鳥古墳群は、5世紀を中心に造られた。この時期は、5世代におよんで中国南朝に朝貢したといわれる「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)の時代でもあり、百舌鳥古墳群は「倭の五王」と、その親族や王に仕えた人々の墓が集まった古墳群だと考えられている。
 ここまでは、通説だし、これら倭の五王は、いわゆる「河内王朝」とよばれる古代首長である。そして「珍=仁徳天皇」だとか「讃=仁徳天皇」だとか、倭の五王について書かれている中国の書物(『宋書』『梁書』)と奈良時代に編纂された日本書紀をくっつける諸説もある。
 しかし、万世一系・神武天皇以来125代などという戦前の皇国史観が嘘っぱちであると同様、仁徳陵が現在の天皇家の「祖先」の墓だと強弁して、市民の立入を禁止するのは不当である。

 もともと江戸時代までは、付近の住民は仁徳陵の木は薪に使ったし、堀の水は灌漑用水として広く利用してきた。まさに生活の中で仁徳陵を守ってきたのである。

 堺市民は親しみを込めて「仁徳さん」もしくは「御陵さん」などと呼んでいる。また、堺市の地区名や町名には、陵西・陵南・向陵(北東)など、この古墳からの方角にちなんで付けられたものがある。

 かつて百舌鳥古墳群のほぼ中央にある「いたすけ古墳」が住宅造成工事で壊されそうなったのを、市民が保存運動に立ち上がり、破壊をまぬがれたこともある。
 今も、古墳を守り、美しく保とうとしている人々によって「仁徳陵をまもり隊」がつくられ、定期的に周辺の清掃活動を行っている。
 そうした中で、堺市がめざしている「世界文化遺産登録運動」は大賛成である。
 一部の右翼勢力の中には、世界遺産登録について「皇室の陵墓を文化遺産扱いするのは不敬だ」などという時代錯誤の皇国史観にもとづいた攻撃を行う輩もいる。しかし、仁徳陵はじめ百舌鳥古墳群は、天皇家のものではなく、堺市民のものである。

 → 堺市作成プロモーションムービー1600年の時を越えて 世界文化遺産登録をめざす百舌鳥・古市古墳群
 
 古墳の一つ一つがかつての日本の姿を今に伝える貴重な歴史遺産であり、日本の歴史の1ページを語る世界的な遺産でもあります。
 この遺産を今後も末永く守り、まちづくりへと活用していくため、堺市は百舌鳥古墳群の世界文化遺産登録をめざした取り組みを進めています。
堺市HP百舌鳥・古市古墳群を世界文化遺産に

 
 ところが、今回の市長選挙で、世界遺産登録に絡んで、維新の会の松井・大阪府知事がとんでもない発言を行った。
 世界遺産へ「仁徳陵に電飾を」…
 大阪維新の会の松井幹事長(府知事)は5日、堺市長選(29日投開票)を前に同市で開いた集会で、世界文化遺産登録へのアピール策として、百舌鳥(もず)・古市古墳群の仁徳天皇陵古墳にふれ、「宮内庁がどう言うかはあるけどイルミネーションで飾ってみよう、中を見学できるようにしようと色んなアイデアを出して初めて指定される」と述べた。
 宮内庁が陵墓に指定・管理する古墳は尊厳を保つ目的で、原則、立ち入りが禁止されている。
 集会は、橋下代表(大阪市長)や、堺市長選への立候補を表明している西林克敏氏らが市民に大阪都構想などの政策を説明する「タウンミーティング」。
 松井幹事長は、都構想に反対し、再選を目指す現職の竹山修身市長が、府と大阪市で進めるイルミネーション事業に参加しないことを批判した上で、仁徳天皇陵古墳を取り上げた。
(読売新聞9月6日)

 これには、多くの人々はあきれ返った。誰の墓かは別にして「電飾で飾る」という軽薄さ。「文化遺産登録」をめざしているのにイルミネーションでケバケバと飾るという悪趣味。さらに、仁徳陵古墳は、地面から見ればただのこんもりした「小山」にしか見えないので電飾で飾ったとしてもヘリコプターで空から見ない限り人々に見えない。
 
 堺市民からは「なんちゅうこと言うんや!このバチ当たりが!」との怒りの声まで聞かれた。

 
 一方、「堺はひとつ」の市民運動の方は、仁徳陵を新たな運動のシンボルとした。
 仁徳陵をかたどったデザインに「堺はひとつ」と書き込み、「みんなで御陵を大行進」とした。
 そして、そのためにこのデザインを左そでにプリントし、左胸には「I♥SAKAI」とプリントしたピンクとブルーのTシャツ1万枚を作成、1枚1000円で販売し運動資金にした。この仁徳陵マークは新しい「市民共同」のシンボルとなった。
 堺はひとつ市民のマーチ

 9月23日、仁徳陵となりの大仙公園には、Tシャツを着た2000人の「堺っ子」たちが集まった。
堺はひとつ集会

 仁徳陵の周囲2.8キロを行進するときも、行進の先頭集団は、仁徳陵の拝所の前に進み出て、きちんと一礼して出発したのである。
 堺市民にとってはあくまでも「御陵さん」である。
 仁徳陵周回
仁徳陵拝所

堺市の作成した世界遺産登録を訴えるプロモーションムービーはこう結んでいる。
 百舌鳥、古市古墳群が築かれてから1600年。私たちはずっと、古墳とそこに葬られた人への畏敬の念を持って共に暮らしてきました。
 古代の人々が私たちに託した価値ある遺産を守り、次の世代へと受け継いでゆくためにも、堺市は大阪府、羽曳野市、藤井寺市と共に、百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録に取り組んでいきます。
『古墳は、私(僕)たちの宝物。』
 

 堺市民の「宝物」である仁徳陵古墳を、「電飾」だ飾ろうなどという維新の会・松井知事のバチ当たり発言を堺市民は許さなかった。1600年の時を超えた古墳を「堺はひとつ」の市民的共同が包み込んだ運動の勝利である。


 
 
Category: 堺市政問題
2013/10/09 Wed
急を告げる介護保険見直し。
来週、私が講師になって学習会を開きます。

こんな介護保険なら保険料詐欺だ!!
次期改悪内容を知り何ができるかを考える
全大阪学習決起集会


社会保障制度改革国民会議報告を受け、介護保険見直し議論が社会保障審議会・介護保険部会
で急速に進み出しました。9 月25 日の第45 回部会で改悪メニューがほぼ出そろい、11 月末
には取りまとめられるというスケジュールです。
大阪社保協では、この9 月から11 月を「介護保険改悪反対大運動月間」と位置づけていま
す。どんな改悪メニューがだされ、どんな運動が必要なのか。大阪全域で学習決起集会を開催し、
地域からの大運動を意思統一してうねりを作って生きたいと考えています。
どの会場の学習決起集会にもどなたでも自由にご参加いただけます。
ぜひ、介護保険事業者のみなさん、介護保険利用者のみなさん、介護保険料を払っている皆さ
ん、お誘いあわせのうえ、ご参加ください。
いずれも講師は日下部雅喜・大阪社保協介護保険対策委員、資料代500 円です。申し込み用
紙に必要事項をお書きの上、主催の大阪社保協(Tel06-6354-8662 Fax06-6357-0846)
までお送りください。
大阪市内学習決起集会
日時 2013 年10 月16 日(水)午後6 時半~
会場 大阪府保険医協会M&Dホール(難波駅26-A 出口上り直進 信号右突き当り左)
http://osaka-hk.org/access.html
Category: 介護保険見直し
2013/10/08 Tue
堺史上400年ぶりの壮挙となった2013年市長選。
堺の歴史と共にそのエピソードを綴る。

第2話 大和川と橋下ツイッター

「大和川」は堺市の北端を流れる川である。すなわち、北方にある大阪市と堺市を区分する境界線でもある。

「大和川の向こうのヒトラーもどきの集団に堺をつぶさせてはなりません!」。9月15日の市長選挙告示日の竹山陣営出発式で、堺はひとつ市民の会代表はこうのべた。

堺市民にとっては「大和川の向こう」とは大阪市のことである。逆に大阪市側からすれば「大和川を越える」とは大阪市外へ行ってしまうことを意味する。
橋下大阪市長も堺市長選挙の最終日の街頭演説でワン大阪実現を訴えながら「大阪市から見ると大和川を越えるだけでとても遠くに行くような気がしてるんです。大阪市や堺市の枠組みを取っ払って大阪が一つにならないとダメなんです」と言っているくらいだ。

 しかし、この大和川は昔からこの場所にあったわけでない。かつては、300年ほど前までは、大阪市側の住吉などの地域と堺市側は陸続きであった。摂津の国と和泉の国の境界は堺の大小路筋であった。
 もともと大和川は、奈良盆地の水を集めて流れ、柏原村で南から流れてくる石川と合流し、ここから西北へ折れ、久宝寺川(長瀬川)と玉串川(玉櫛川)に分かれて流れて河内平野を流れ最後は淀川と合流していた。このため河内平野は、常に洪水に悩まされていた。このため、幕府によって、江戸中期の1702年(応永元年)に、石川との合流点から堺の海岸までを結ぶ人工河川「新大和川」が造られた。「大和川の付け替え」という歴史的大事業である。
 大阪側の河内平野では、これにより水害が減少し、新田開発や河内木綿の生産など多大な経済的利益を得た。

 大和川付け替え図2

 ところが、堺は、これまで陸続きだった住吉と分断され、新しい大和川が運んでくるおびただしい土砂によって、6回におよぶ改築工事が江戸時代に行われたにもかかわらず、堺の港は埋没を余儀なくされ、大きな船が入港・停泊することができなくなった。これによって、中世の自由な湾港都市として栄華を誇った堺の町は、港湾としての役割を果たせなくなっていった。「堺」の輝かしい「黄金の日々」は新大和川によって落日を迎えたのである。
 
 さらに、新しい大和川は水害発生の危険を生み、とくに浅香山付近は大きなカーブとなっており、増水すると付近に水害をもたらす結果にもなった。

 私が堺市役所に入って3年後の1982年8月、台風による豪雨で、大和川とその支流域で大きな被害が出たことがある。当時本庁に勤務していた私たちも動員され徹夜したこと、避難所に物資を配送するため軽四の公用車で暴風雨のなか、車体がひっくり返りそうになりながら走り回った記憶がある。

 この1982年の台風時には、西除川の下流部が氾濫、堺市内の浅香山などは水浸しになった。さらに、大和川を渡る、「国鉄阪和線」・「南海本線」・「南海高野線」などの路線や、幹線道路の「国道26号」(大和川大橋)も全面ストップした。大和川に架かる一般道路の「吾彦大橋」・「遠里小野橋」・「国豊橋」など、全て通行止めとなり、大和川を挟んだ大阪市と堺市は、完全に分断され、一時的に行き来が出来なくなった。
 その後大和川流域の総合治水事業などで、大規模水害は発生は防がれてきた。

この大和川は、今回の市長選挙で物議をかもすことになった。

市長選挙告示の翌日の9月16日、台風18号が襲来し近畿一円に大きな被害をもたらした。警報が出され堺市内の一部に避難勧告も出た。

 

堺市職員の端くれである私は「災害地区班員」という役目を仰せつかっている。勤務時間外の休日・夜間に災害が起きた時、居住地の小学校に避難所を開設する任務である。
その朝、私は、警報・避難勧告と知って活動は休止し、地区班長と連絡をとり「出動指示」に備えた。
ふとパソコンでみたのが橋下の「堺市長選挙について述べます」というツイッターであった。

 橋下がツイッターを開始したのは9月16日午前9時半すぎ。大阪市と堺市の境界を流れる大和川流域の水位が上がり、大阪市にも30万人に及ぶ避難勧告が出される中、大和川の状況が落ち着くまで自宅待機で役所と連絡をとるといい、市長選挙についてツイートしはじめたという。


「状況が落ち着いてから、堺市長選挙のために堺市内に入ります。ゆえにツイッターで、堺市長選挙について述べます。久しぶりのツイッターだな~。以前の感覚、忘れちゃった。徐々に取り戻します」
ツイートは竹山市長の悪口からはじまり、大阪都構想へと延々と続いた。ところが、大阪で台風の勢力がもっとも強いタイミングだったため、「この感覚に驚き」「いいかげんにしろ!状況考えろよ!」などと市民からは怒りのツイートが相次いだ。市長選で維新側の候補と「一騎打ち」する竹山市長がさっそく氾濫した河川の視察に出ていたことがツイッターで伝えられたことなどもあって、「うち(大阪)の市長ときたら」と呆れ返る声も出た。

私は、34年前に堺市職員になった時「公務員たるものは、災害が起きたら市庁舎や市民の生命・財産を守るため、たとえ自宅が被災しようが役所に来なければならない。はってでも登庁するのが公務員だ!」と言われた。事実、大災害の時は現地の公務員たちは自ら被災しながらも住民のために家族もさしおいて出動している。阪神大震災でも東日本大震災でもそうだった。
災害の時こそ、「全体の奉仕者」たる公務員の本領が発揮される。当然、行政トップの市長ならなおさらである。

 ところが、橋下は大阪市長というトップの地位にありながら、役所に登庁もせず、自宅でツイッターざんまい。
この姿を知っただけで私は。橋下は市長どころか一切の「公務」にかかわる資格はない!と思った。

しかし、この男のとんでもないところは、台風時の自らの行動への批判に「自宅にいても市長としてちゃんとやっている」」と開き直り、さらにあろうことか、現場にいち早く駆けつけた竹山市長の行動にケチをつけたことである。
 「堤防の現状確認など、素人の市長がやっても意味がない」とツイートした。自分は自宅でツイッターしていた人物がである。
 
 この橋下の行動には、ごうごうたる非難が沸き起こった。

 東京のメディアですらこう書いた。
 橋下氏台風そっちのけで選挙ツイートに怒りと失望の声
 大型の台風18号が日本列島を縦断し猛威を振るい、福井、滋賀の両県、京都府の全域に、運用が始まったばかりの特別警報が出された。まさにそのころ、京都から遠からぬ大阪市の橋下徹市長(44=大阪維新の会代表)は、前日に公示された堺市長選(29日投開票)のツイートを連投。台風そっちのけの姿勢に非難が殺到するや、抗弁やお得意の論点すり替えに出たが、ネット上では怒りや失望に拍車をかける事態となった。


産経新聞ですらこう書いた。 
 約1カ月ぶりにツイッターを更新した橋下徹大阪市長。やや“軽口”気味で、台風18号による影響が心配される最中の投稿だったが、直後の話題も隣りの堺市長選に終始し、「被災地の視察は無意味」とした“自宅ツイッター”に対し、ネットユーザーからは疑問の声も上がった

 橋下は、この後、「得意」のツイッターもほとんどやらなくなった。投稿されるのは大阪都構想のCM,演説会の中継動画、「維新なチャンネル」のお知らせだけになってしまった。

 
 2013年9月16日のこのできごとは、あわや水害という非常時に、堺市民はおろか自分が責任をもつべき大阪市民の生命・安全もそっちのけに、万人をコケにするような言動を行った恥男・橋下徹の 本質を誰もが「実感」できる形で示す結果となった。

 その発端となったのが、「大和川」の増水であった。

「大和川」は、堺と大阪を隔てる人工河川。そして、大和川の付け替えは、大阪側には「繁栄」を、堺側には「苦難」をもたらしてきた歴史がある。

 おそらく橋下は、大和川の歴史も堺とのかかわりもろくすっぽ知らないで、毎日大和川を渡って堺にやってきていたのであろう。


 今回の市長選では、大和川は 二つの大きな役割を果たした。一つは、地理的に河川で遮断された堺側が、堺を飲み込もうとする「大阪都構想」に対し、「大和川の向こう側の者に飲み込まれてたまるか」という、旺盛な独立心、自由と自治の意識形成の基盤となったこと 二つは、この大和川の増水、避難勧告のさなかでの橋下ツイッター男の本性を暴きだしたこと である。

 堺とともに歩んだ「大和川」300年の歴史の中で、今回の堺市長選では、大和川が、かつての中世自治自由都市時代に堺の町を守った「堀」の役割を果たし、さらに、増水・水害の危険という河川の持つ「猛威」をむき出しにすることによって、ツイッター男の堺での政治生命を絶った。

 大和川が運んだ土砂は堺の港を埋めた一方で、戎島など新たな「土地」も生み出し、新田開発や埋め立ても可能とした。水害など苦難も多かったが、恵みもあった。そして、近年は、奈良県の人々や大和川沿岸の人々によってきれいで安全な大和川をめざす市民運動も盛んになっている。

 この市長選を通じて、「大和川」を改めて実感した堺市民。こんごどのような歩みをすすめるであろうか。


 
Category: 堺市政問題
2013/10/07 Mon
 堺にとって400年ぶりの歴史的壮挙であった2013年堺市長選。
 そのエピソードを堺の歴史を織り交ぜながら書きつづる。 

 第1話 ルソン助左衛門と維新砦

 選挙直前に、堺市民会館の斜め向いにつくられた大阪維新の会の選挙事務所。のぼりが立ち並びさながら戦国時代の城郭のようであった。
 私は維新の堺攻めの出城=「維新砦」と名付けた。

 ここに連日100名以上の維新の地方議員、国会議員、落選組、維新政治塾出身者、秘書、スタッフら 全国からかき集められた「外人部隊」が毎日集結し、2人、3人と組をつくって、全戸訪問ローラー作戦を展開した。堺市内のホテルを1ヶ月間借り切っての作戦である。まさに、維新の総力をあげた堺攻めの出城であった。
 そして、その資金は、今や50人を超える国会議員を擁するにいたった「日本維新の会」が手にした巨額の「政党助成金」である。マスコミの中にはこの市長選挙で2億円がバラかまれたとの報道もあった。

 維新砦


ところで、この維新事務所の向かいにある堺市民会館の敷地には像が立っている。

戦国時代の 自治自由都市にして国際貿易都市のシンボルであった呂宋(ルソン)助左衛門の像である。

ルソン助左衛門

 この像はNHK大河ドラマ「黄金の日々」が放映されてから2年後、私が堺市役所に就職して間もない1980年に建立された。
 遠眼鏡を手に世界を見据え 大きく手をあげる この像は、交易を求めアジアに乗り出していった堺商人たちの心意気を表し、失われた堺の栄光をしのばせる 堺市民の 心のよりどころ である。

 ちなみにルソン助左衛門は、ルソン貿易で豪商となったが、最後は豊臣秀吉と対立し、秀吉から身分をわきまえずに贅を尽くしすぎるとして財産没収の処分を受けることになる。助左衛門は、事前に察知してその壮麗な邸宅や財産を菩提寺の大安寺に寄進して日本人町のあるルソンへ脱出した、という。


 この像のまん前に出現した「維新砦」。ここに居座った連中のはたして何人が、このルソン助左衛門のことを知っていたのか。
 少なくとも「総大将」の橋下大阪市長は、知らなかっただろう。また、知っていたとしても何の関心もなかっただろう。橋下が堺市内で数多く行った演説で、ただの一度も触れたことはない。

 この橋下市長が大言壮語する「大阪都の実現で世界の都市間競争に勝負する」「東アジアに進出」などということは、すでに400年も昔に、目の前に像になって立っているルソン助左衛門がやり遂げているのである。
 こんなことも知らないで堺にのこのこと大阪市長の公務をすっぽかして日参していたのが総大将・橋下であった。

 維新事務所から出てきた若い運動員に聞いてみた。
「あなたはこのルソン助左衛門を知っていますか。堺市民はみんな誇りに思っている人ですが」

 九州から来たという彼は「ええー。キリスト教の宣教師ですかね~」
 アホか こいつは この像をどう見たらフランシスコザビエルに見えるんや! まあ若いから「黄金の日々」は市らんやろが。しかし日本史を知らなさすぎる。

 こんな 全国から動員された 堺のことを何も知らない連中が 市内を地図を片手にうろつきまわったのである。

 新金岡の街頭宣伝で出くわした維新の運動員は、メガホンで「私は北九州からきました。堺はこのままでよいのでしょうか」とがなりたてる。埼玉からきたというお兄さんは「堺市にはじめてきましたがとてもさびれています。大阪都になって力を合わせて…」と臆面もなくスポット演説する。
 私でなくてもカチンとくる。「よそのもんにそんなこと言われたないわ!」
 
 橋下市長も、選挙の最終盤、旧市街の山之口商店街を訪れ、商店街のさびれ具合をひとくさり言った後「大阪都になれば梅北のように活性化する」というようなことをほざいたそうである。
 そんなもん、大阪市の中心街に比べれれば、見劣りするにきまっている。しかし、その地域には地域の事情もあり積み重ねもある。
 人の町に土足で乗り込んできて、「大阪都になれば…」などと言われてもとても共感できない。

 堺東商店街を橋下と練り歩きして維新の動員者は、「大阪都って分かりにくいよな」「説明難しいよな」とぼやいていた。
 また、他府県からかき集められた維新のスタッフは「『堺はひとつ』かも知れんが、維新はバラバラや」と嘆いていたとある新聞記者はいう。

 そのような「侵略者」の根城「維新事務所」を、選挙期間中、市民会館前のルソン助左衛門像は見つめていた。

 そして9月29日、「堺のことは堺で決める」の堺市民の良識と「堺はひとつ!」でかつてない市民的共同を実現した力によって、維新候補は大差で敗れた。

 「維新砦」は あえなく「落城」となったのである。
 意気消沈する維新の敗残者どもに マスコミが容赦なく群がり「敗戦の弁」を語らせる光景が維新事務所で繰り広げられた。

 自由・自治都市、黄金の日々の シンボルである 堺市民会館前のルソン助左衛門像は、その存在は忘れ去られているが、この像の前で繰り広げられた 維新勢力の 堺市解体、財政・権限はく奪を許さなかった1ヶ月半の闘いは、堺市に再び「黄金の日々」を取り戻す契機になりうるだろうか。
 
 その「黄金」は、単純な「経済的」な富ではない。日本の未来を先取りするような、新しい自治と自由のあり方であり、そのような地方自治体である。

 自治都市堺の「現代的再生」の方向を、市民共同で探求するときであろう。


Category: 堺市政問題
2013/10/06 Sun
堺は秋祭りの最中である。だいたい北の方がふとん太鼓、南の方はだんじりである。堺のさまざまな祭りを一つにして堺百町とよんでいる。
 堺百町すべて
堺の祭 だんじり・ふとん太鼓「堺百町」
秋の堺では市内各所で、多くのだんじり・ふとん太鼓の祭りが開催されます。
「堺百町」とは、それぞれの地域の伝統を大切に守り、伝えていこうとする「町」の集まり。

わが町は 堺市西区の鳳だんじりです。
【鳳だんじり(地車)祭についての解説。実はだんじり発祥はここです。】 
 鳳だんじり祭り(おおとりだんじりまつり)は、堺市西区にある大鳥大社「美波比(びばび)神社」周辺で行われる秋祭り。堺市のだんじり祭りのなかで最も多くの観客が訪れます。
 鳳のだんじり祭りは、約400年前から行われていると言われています。最も有名である岸和田だんじり祭りが約350年前からなので、だんじりの発祥と言われます。
 鳳だんじり祭は、大鳥・野田・新在家・北王子・野代・長承寺・上・石橋・富木・濱寺元町の10町のだんじりが曳行されます。
 私の家の前はこれに加え津久野のだんじりが2台とおります。

 2階ベランダの目の前をだんじりが通って行きます。
 カーブを回る やりまわしは 見放題です。

だんじり1

だんじりの上でウチワもって飛び回る「大工方」。花形ですがいのちがけです。

だんじり2

今年も誰一人 落ちたり 転倒することなく、見事な やりまわし でした。
12台のだんじりと 保存会 のみなさんに拍手です。

だんじり4

私の家からは だんじりを 間近で 見下ろせるので、絶好の 見物席になります。

市長選挙での「堺はひとつ」ビラに 掲載された写真も 実は 昨年 私がここでとった写真です。

だんじり5





Category: 堺市政問題
2013/10/05 Sat
 講師を依頼され土日に予定されていた「介護ウエーブ沖縄集会」が台風接近のため中止となった。9月29日の堺市長選挙後の1週間は、翌日からケアプラン点検問題の会議、介護保険料問題3団体会議、そして介護保険料に怒る一揆の会ニュース作成、同世話人会など、睡眠時間もとれないくらい忙しかったので、この土日は、自宅で堺市長選挙中にほったらかしになっていたことをかたつけながら、少し堺市長選挙を振り返ることにした。

 なぜ勝てたか。「堺はひとつ」でたたかったからである。

 なぜ、そのような「堺はひとつ」のたたかいができたか。考えてみたい。

 第1は、堺の歩んできた歴史と大阪の関係である。

 今年6月結成された「堺はひとつ 市民の会」はこうよびかけ、署名運動をはじめた。
 私たちが守りたいのは、「堺というもの」です。「役所」や「議会」なんかではありません。何百年の歴史がある、堺の町衆たちが守り、発展させてきた、この「堺というもの」、 これを守りたいのです。
「堺というもの」を守り、発展させるために、「政令市」は、ものすごい武器になります。
「堺っ子」は、何百年の歴史を経て、やっとこれを手に入れました。
 このおかげで、普通の市にはない、色々な権限と財源を手に入れました。
 つまり、他の市にはできない、まちづくりや産業振興、子育て支援や教育の充実などの身近なサービスを 自らが考え、実現できる、「強い自治の力」を手に入れたのです。
 でも、都構想になれば「堺というもの」は、「大阪というもの」に取り込まれ、 そして私たちは、自治をなくしてしまうのです。
 そうなれば、私たちの子どもたちは、自分たちのことを 「堺っ子」と呼ばず、「大阪人」と呼ぶようになるでしょう。
 私たちは、そういう未来を、絶対に避けたいと考えています。
これからも、この「堺というもの」を子どもたちや孫たちに引継ぎ、 発展させていってもらいたいと思っています。
「堺はひとつ! 堺を無くすな!」
 私たちはこのことを堺市民の皆様に訴え、「堺はひとつ」運動を広げて参ります。


 ここで、「大阪というもの」に取り込まれることを拒否して、「堺というもの」の自治を守るという「堺人」の熱い思いが伝わってくる。
 中世の日明貿易、南蛮貿易で栄えた「自由・自治都市」堺は、豊臣秀吉による大坂築城と城下町建設によって、その地位を失い「大坂」という巨大都市・「天下の台所」に付随する衛星都市へと転落した。

 私ごとになるが、私が堺市役所に就職した1979年の前年NHK大河ドラマで「黄金の日々」をやっていた。戦国時代、自治都市・堺と呂宋(ルソン=フィリピン)の交易を開いた商人・呂宋助左衛門こと納屋助左衛門の物語で、自由で活気に満ちた堺に生まれ、南蛮交易を夢見た青年が大海に乗り出し、やがて豪商となり権力に立ち向かう姿を描きながら、庶民の視点で戦乱の世をとらえた作品である。
 堺市の職員採用試験での面接で、岐阜県出身で大学も名古屋市内だった私は、「なぜ堺市を志望したのか」と質問され、「『黄金の日々』を見て感動しました」と答えた。面接担当職員は苦笑していたが、なぜ苦笑していたかは堺市役所に入ってからよくわかった。
 当時の堺市は財政危機で、私の採用される前5年間は新規採用をストップしていたほどであった。「昔黄金の日々、今赤字の日々」などと言われた。
 また当時の堺市は合併を繰り返し泉北ニュータウン開発などで80万都市になっていたものの、「大都市」とはとても言えない内実であった。
「堺市の全体像は、ひとくちでいうならば、『統一なき分裂都市』ということでありましょう。中世の堺のように、『商人の自治都市』と表現できるような統一したイメージがありません。(中略)堺市は地方においておけばせいぜい人口10万人ぐらいの都市機能しかもたぬ小都市と住居群のあつまりにすぎません。それは堺市が衛星都市であるためです。人口が同一規模の広島市や仙台市とくらべてみるべきです。いや、もう少し人口の少ない熊本、岡山、金沢などの諸都市とくらべてもよいでしょう。行政的、文化的、商業的、金融的な都市機能の面で、全くこれらの地方中心都市にみおとりがします。堺市は(略)のように、管理機能、金融的機能はきわめてみおとりがする、いわば巨大なベッドのごとき状況なのです。『大飯場』といってよいかもしれません。」(堺市政白書~コンビナートとニュータウン開発の結果 1976年 宮本憲一監修)
 
 私は、堺市職員となって間もないころ読んだこの「市政白書」の「統一なき分裂都市」「せいぜい人口10万人ぐらいの都市機能しかもたぬ小都市と住居群のあつまり」という分析は、大きなショックであるとともに、「まさにそのとおり」と納得せざるを得なかった。

 これは、戦後の堺市が、大阪経済界、関西経済界活性化に利用されつづけてきた歴史からきている。高度経済成長期は、堺泉北臨界コンビナート開発、泉北ニュータウン建設に象徴的なように、大阪経済界の活性化に堺が利用されれ、堺の保守勢力も大阪の動きに乗じて「堺市の発展」を図ってきた。「50万都市構想」「100万都市構想」がそれであり、人口だけは大都市になった。
 さらに、バブル経済期とその後も、大阪経済界は、関空を泉州につくり大阪、関西の国際化を図るという戦略で、堺の保守層や経済界も関空に乗じて堺でプロジェクトを実施しようとしてきた。
 この大阪財界、関西財界が自らの活性化に堺を利用し、堺の保守勢力や経済界もそれに追随することで自らの活性化を図る、これが戦後の堺市の歩みであった。それによってもたらされたものは、白砂青松の海浜の消滅、環濠の消滅と公害問題であり、「統一なき分裂都市」であった。

 そして今回の、維新の会の「大阪都構想」は、大阪財界にとっては、堺の「最後の利用」というべきものであった。大阪中心部の開発と大型公共事業などに堺を「利用」するために、政令指定都市としての権限と財源を奪うだけでなく「自治体」としての堺市も解体し分割したうえで「特別自治区」としてしまうものであった。
 これには、堺の保守層や経済界も困り果てた。これまでのように大阪に追随しようとしても、「堺市の廃止・解体」をもたらすような大阪都構想では、自らも「消滅」してしまうためである。
 400年以上前の「黄金の日々」へのあこがれをもちつつ、大阪財界に追随してきた堺の保守勢力は今回の選挙で歴史的帰路に立たされたのである。
 
 第2は、竹山市長の存在と立場である。

 4年前の堺市長選挙は、橋下大阪府知事(当時)が、WTCへの府庁移転が府議会で否決され八方ふさがりになっていたとき、既存政党と対決したはじめての勝負であった。ここで勝利がばねとなって、府議会の力関係が変わり、自民党からの脱党者が相次ぎ、「大阪維新の会」の結成へと突き進むことになった。また、大阪府内の自治体首長たちも橋下の放つ「刺客」をおそれ、維新おそれるようになった。その維新の旗印が「大阪都構想」であった。
 竹山市長は、橋下府知事の全面支援で市長になったものの、2010年1月に大阪都構想が発表されたときも「賛成」していないし、その後できた維新の会にも加わららなかった。
 そして、その竹山市長が、府市ダブル選挙後の2012年2月、協議会への参加を明確に拒否し、堺市の不参加を明確にしてきた。そして、市長選挙の近づくと、全国の政令指定都市市長や府内の自治体首長にも「反大阪都構想」の共同戦線を呼びかけるようになった。 
 私は、生意気にも一介の職員でありながら、2011年1月の本ブログ「大阪都構想から自治都市・堺をまもるために」 で
「堺市と堺市民」が大事なのか、「生みの親」である橋下知事との関係が大事なのか。竹山氏が本物の堺市長になるためには、橋下知事と維新の会に決別宣言をするべきである。
 と書かせていただいたが、その1年後の府市ダブル選挙直後という「橋下維新絶頂期」に、橋下市長・松井知事両氏を前に「堺市不参加」を敢然として宣言されたことは実に勇気ある行動であった。
これでこそ堺市長! 
独立と自由ほど尊いものはない  
 そして、今回の市長選挙でのみごとな闘いぶりである。私ごときの者が言うのもおこがましいが、2年半前での非礼をお詫びしつつ「この市長でよかった」と日々思った市長選挙であった。
 竹山市長は、私のようなよそ者とは違い、生粋の堺っ子であり、聞くところによると大学卒業後、堺市役所に就職しようとされたが職員募集をしていなかったため府庁に就職されたとのこと。さらに、前回市長選挙の4年前にも市長選挙への出馬を検討されたとのことである。
 かつて橋下知事の「部下」で、最初の市長選挙での「恩義」があっても、堺市と堺市民のために決然と維新の会と対決する。現職市長のこの姿勢が、堺市民の「堺はひとつ」の歴史的共同を生み出すうえで大きなよりどころとなった。
 
 第3は、かつてない「市民的共同」である。

 今回の市長選挙は、実にたくさんのグループや市民、団体が重層的に参加し、「勝手連」も数多く活躍した。「堺はひとつ」は二つの意味がある。一つは「堺市の分割を許さない」というもともとの意味、二つ目はその堺をまもるために「みんながひとつになる」という市民的共同の合言葉である。
 いち早く、2011年「大阪都構想から自治都市・堺を守る会」を立ち上げ、自民元市議の方をはじめ多くの方々の参加で5回のシンポジウム・フォーラム、7区全てでの「つどい」開催、「堺はひとつ」アピールなどを取り組んできた私たちの活動が運動の火付け役になったことはまちがいない。
 
 そして、市長選挙が近付くにつれ、竹山連合後援会とは別に、今年6月に 自治連合協議会や各種団体を総結集した「堺はひとつ 市民の会」が発足し、堺はひとつ運動は大きく広がった。
 さらに、共産党や民主団体、市職労などでつくる 住みよい堺市をつくる会は 今年8月に「堺はひとつ」の立場で「自主的支持」を決め、選挙戦をリードする大活躍を行った。
 さらに、革新無党派を含む多様な人々が参加する「堺大好き 堺っこアクション」もユニークな活動を繰り広げた。 
 まさに、「大阪都構想」という脅威から「堺を守る」の1点で共同が広がった歴史的選挙であった。
 「堺はひとつ」運動の中心になった山口典子市議は、
「新しい市民運動のウエーブの誕生です。堺市民が政党の枠や団体の主義主張を超えて『堺はひとつ』という一点に結集した。これは堺市民の、自由都市・堺のDNAです。新しい境地を開きました」
 と語っている。堺市民は「この堺はひとつ」で維新と大阪都構想に勝利した経験で 新しい「共同」を生み出したと言える。

 ところで、堺市には、30歳代前半以下で堺市内の小学校出身の人ならだれでも歌って踊れる「堺っ子の歌」「堺っ子体操」というものがある。
 みんなつながる堺っ子体操
 その歌詞の3番に
嵐がきたって 平気だぞ 
 グーンと背伸びして 
 仲間は輪になり 助け合う 
 一二 一二 一二三 と立ち向かう
 堺っ子は 元気な子 
 僕も 私も 
 今日から あしたに ホップステップジャンプ
」とある。 

 維新・大阪都という「暴風」に、みんな輪になって立ち向かった 堺っ子が
 あしたに向かって ジャンプできるか は これからの 市民共同の運動、そして 各分野の活動にかかっているだろう。

 市長選挙を通じて、「堺はひとつ」の市民意識はかつてなく高まった。「大阪に飲み込まれない」という意識は、「堺ナショナリズム」とよぶべき気分感情さえ生みだし、中世に失った「自由・自治都市」の再生を望む声も高まっている。
 豊臣秀吉によって、「黄金の日々」を奪われた堺が、400年以上たって再び その誇りと自治意識を取り戻すのかもしれない。かつての環濠都市・旧堺地域だけでなく、「堺はひとつ」の合言葉のもと、「大堺市」が一つにまとまった。

 ただ、自由・自治都市の「現代的再生」の方向は定まっていない。まさにこれからである。

 この選挙を通じて私が堺市職員として30数年来いだいていた「コンプレックス」が消えた。

 少なくとも私は、堺市職員として、この堺を「統一なき分裂都市」などとこれからは蔑むことはぜったいにしない。

 大阪市長と大阪府知事を 先頭に強大な勢力を誇る維新の会に、「堺はひとつ」の合言葉で立ち向かい、大阪ではじめて打ち勝ち、大阪都構想から見事に堺市存亡の危機を脱した堺市民がいるのだから。

 豊臣秀吉に切腹申しつけられ死をもって抗った千利休以来の歴史にのこるのが今日の誇りある堺市民たちである。このような堺市民のために働けるのは自治体職員の端くれとして幸福なことではないだろうか。
 堺はもはや「統一なき分裂都市」なんかではない。
 「堺はひとつ」である。 

Category: 堺市政問題

プロフィール

福祉・介護オンブズマン管理者 日下部雅喜(くさかべまさき)

Author:福祉・介護オンブズマン管理者 日下部雅喜(くさかべまさき)
 福祉・介護オンブズネットおおさか事務局長
 介護保険料に怒る一揆の会事務局長
 大阪社会保障推進協議会介護保険対策委員
 
 

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