2016/03/31 Thu
長年お世話になりました
心から感謝申し上げます
私は、本日をもって、三七年間務めさせていただいた堺市を定年退職させていただきます。これまでお世話になったすべての方にお礼を申し上げます。
特に、南保健福祉総合センター地域福祉課では、二〇〇〇年(平成一二年)四月から一六年間の長きにわたり同じ介護保険業務を担当させていただきました。
何かと至らぬ私をご指導いただき、フォローしていただいたみなさんに、退職にあたって心から感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。
2016年3月31日
堺市南区役所南保健福祉総合センター地域福祉課介護保険係 日下部雅喜

日下部雅喜 堺市役所での37年間
1979(昭和54)4月 堺市役所入職
福祉部障害福祉課に配属
1983(昭和58)年7月 堺市職労本部執行委員
1990(平成2)年9月~1995年8月 堺市を休職し組合専従(大阪自治労連へ)
1995(平成7)年8月堺市復帰 民生総務課へ異動
堺市職労本部副委員長(ヤミ専従)
1996(平成8)年6月 闘争路線をめぐり副委員長辞任 9月 民生総務課法人監理担当
2000(平成12)年4月 社会福祉法人不正事件の刑事告発めぐりへ不当配転で南支所(当時)へ
南区役所地域福祉課介護保険業務担当(16年間)
2016(平成28)年3月 定年退職


みなさんに支えていただきました
入職から1980年代 障害福祉課
知的障害者福祉の企画運営、手話講習会・手話通訳
派遣等、国際障害者年長期計画作成等を担当、1983年障害児ヘルパー担当、1984年無認可障害者作業所補助事業及び法人化と認可施設整備等を担当しました。
若かりし頃、平和運動、労働組合運動に燃えていました。
無認可障害者作業所補助金担当しながら指導員労組の結成を手伝ったり、非常勤ヘルパーさんと7年かかって1990年に労組結成、登録制から非常勤へ などいろいろありました。
1990年代  前半(1990年~95年) 休職専従で大阪自治労連本部へ
1995年~96年 一年間ヤミ専従副委員長


勤務時間延長、特殊勤務手当削減などめぐり労使紛争、市議会議長あっせんと闘争路線めぐって失脚し副委員長辞任。
1990年代後半(1996年~2000年) 民生総務課 社会福祉法人・施設指導監査
2000年4月 堺福祉会不正経理を「個人」として刑事告発し、南支所へ不当配転。
2000年4月~現在まで 


介護保険の窓口業務をやりつつ、介護保険料に怒る一揆の会、介護報酬不正追及などで裁判闘争、介護保険の問題点告発、改革を求める活動など 自由にのびのびと働き、活動させていただきました。お世話になったアルバイトさん。そして、職場のみなさん。いろいろご迷惑をおかけした上司のみなさん。そして、地域のケアマネさんや事業者のみなさん。なによりも、南区民、堺市民のみなさんに感謝を申し上げます。
スポンサーサイト
2016/03/31 Thu
2016年3月31日。定年退職の日。
私の37年の地方公務員生活最後の日。
「定年により職務を免ずる」という卒業証書をいただきました。

この金バッジ(職員き章)もお返しします。
堺市民のみなさん。お世話になりました。
私の定年退職お礼のチラシです。辞令交付式の後竹山市長にもお渡ししました。堺市役所本庁の各職場でお世話になった方々にお渡ししさせていただきました。本当にお世話になりました。感謝です!

7部咲きの桜に囲まれた南区役所。
私の机の上には花束やらいろんなプレゼント。
ありがとうございます。

【職場のみなさんへの退職ごあいさつ】
堺市南区役所地域福祉課の皆さん。定年退職にあたり、ひとことお礼のご挨拶を申し上げます。私がこの南区役所にやってきたのは16年前の2000年平成12年の4月でした。当時3月まで本庁で社会福祉法人の監査を担当していた私は不正事件の処理をめぐって上層部と対立し、この南区役所に不当配転で飛ばされました。いわば私の公務員人生はこれで終りました。
しかし、そんな私を受け入れてくれて、いきいき、のびのびと仕事をさせていただいた職場の皆さんには深く感謝をしております。16年間本当にありがとうございました。
南区は素晴らしい地域です。ぜひ皆さんの力で素晴らしい福祉の街南区を作っていただくようにお願いいたします。ありがとうございました。
堺市職労の組合事務所にもごあいさつ。歴代委員長の松永さん、丹野さん、退職者会の森本さんと記念撮影。お世話になりました。
公務員生活の終了。職員証も返却。
一度も使わなかった「徴収職員証」(立入検査権、滞納処分の権限の証明)も返却。
「私は憲法を擁護します」書いたネームプレートは、記念に持って帰ります。
2016/03/19 Sat
3月19日午後、堺市の介護保険を考える会10周年企画として、「居宅介護支援業務の押さえどころ
~根拠のない『伝承』からの脱却~」 と題して「ケアマネ実務研修会」を開催した。
講師は、「スーパーケアマネ」として有名な山形県の 成澤正則 先生 をお招きした。
会場には150人以上のケアマネさんでいっぱいに
根拠のない「伝承」でなく、法令に基づく仕事をすることがケアマネの基本と強調された成澤講師
会場・設営から 準備まで ケアマネさんの手作りで
研修会の最後に、私・日下部雅喜から、「ケアマネジャーさんへの訴え」をさせていただいた。
堺市のケアマネジャーさんへの訴え
堺市は2017年(平成29年)4月から実施する「介護予防・日常生活支援総合事業」と合わせて「自立支援型ケアマネジメントへの転換」を図るとして、多職種によるケアプランの内容を検討する「ケアプラン支援会議」の開催を打ち出し、2016(平成28)年度に地域包括支援センターのプランを対象モデル事業を実施し、2017(平成29)年度には本格実施する方針です。(資料参照)
要支援1のプランを作成者(ケアマネ・包括)とサービス事業者が会議に招集され、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、管理栄養士、歯科衛生士などのリハビリ関係職から助言を受けるもので、1件30分で1回の会議で6件、最低、週1回は開催するというものです。この中央会議のほかに「区会議」も予定されています。
利用者を見たこともないリハビリ職がわずかな時間でプランを検討するという手法も会議は他県で実施されていますが、「半年でサービスから『卒業』と言われた」「リハビリ職のみの観点で利用者の生活状況を無視したアドバイスでプランを変更させられた」、「会議の事前の準備が大変で、まるで『被告席』に座らせられるようだった」などの実態が報告されています。自宅で入浴もできない要支援2の利用者のデイサービスを「卒業」として打ち切った事例もあります。
このような会議は近畿では例がなく、大阪府内で唯一2015(平成27)年度から新総合事業を実施している箕面市では、「多職種による会議は『ケアマネたたき』のように受け取られる」として実施せず、ケアマネジャーが開くサービス担当者にリハビリ職が出かけていく方法をとっています。
堺市は、「ケアプランを切るためのものでない」「ケアマネジャー支援が目的」と説明しています。しかし、2011(平成23)年度から行われている「ケアプラン点検事業」も当初は「ケアマネジャーの気づきを促す」「一方向でなく双方向ですすめる」「できていないことを指摘するものでない」と言われていました。ところが5年たった現在は、「立ち直れないほど打ちのめされた」「上から目線で不備ばかりあげつらわれた」「報酬返還を目的としているのではないか」といった声まで聴かれます。
「ケアプラン支援会議」がこれに輪をかけたケアマネジャーへの締め付けとなり、「怖くて要支援1や新総合事業のプラン委託は受けられない」というような事態になりかねません。
堺市に対して一方的な「ケアプラン支援会議」の実施を中止し、よりよいケアマネジメントをめざして、ケアマネジャーの意見を十分反映した「ケアマネジャー支援」を行うよう求めていきましょう。
2016年3月19日 日下部雅喜
研修終了後は、会場を変えて、成澤先生を囲懇親会
なんと、ケアマネさんから私の「退職記念」に花をいただいました
Category: 介護保険見直し
2016/03/18 Fri
3月に入って、定年退職が迫ってくるとあちらこちらから、送別会のお声がかかり、花束や記念品をいただくようになった。20年以上も前のことを覚えていて下さり、記念品を託してくださる方もいた。
堺市の元ヘルパーさんから私に定年祝いのお手紙とお菓子をいただいた。
私が、登録制ヘルパーだった150人近くの堺市のヘルパーさんの組合づくりを何年もかかってお手伝いし、労組結成・全員「週3日」の固定制の非常勤職員を実現したのは1990年から91年のこと。
もう4半世紀も前のことで、2000年の介護保険制度により堺市のヘルパー事業は廃止され、非常員ヘルパーは、介護認定調査員に移行してしまった。労組の名称も変わっている。
当時のヘルパーさんから、「登録制ヘルパーから非常勤になれたのは日下部さんのおかげ。いまでも感謝しています」というお手紙と退職記念の品をいただいた。
思えば、1983年に初めて障害福祉課で、ヘルパーの担当をさせていただき、あまりにもひどい「登録制ヘルパー」の待遇に驚き、組織化をはじめて労組結成まで7年かかった。はじめた当時はわたしはまだ20歳代の若造で、ヘルパーさんたちははるかに年上の方ばかりだった。
「主婦のボランティアからプロのヘルパーへ」。100人以上の集団が、成長していった歩みは素晴らしいものであった。
いまは、わたしと彼女らの「記憶」にしかない「堺市非常勤ヘルパー」だが、多くの人が堺市内のあちこちで今も頑張っている。
すっかり高齢になられたが、まだまだお元気で、地域のボランティアやNPOで活躍されている。
私の方こそ、素晴らしい経験をさえていただき感謝である。
そこで、私の記憶と手元の資料から、堺市非常勤ヘルパーの歩みについて書き記してみた。


ないないづくしの「登録制ヘルパー」
1983年、それまで低所得世帯対象に「無料」で派遣されていたホームヘルパー(当時は家庭奉仕員と呼んでいた)の制度が変わり、一般世帯の要介護高齢者や障害者にもサービスが提供されるようになった。それと同時に、所得税課税層は「有料」化された。堺市のホームヘルパー制度は、1970年代の堺市職労の下請け労働者直営化闘争で、社会福祉協議会の非常勤職員だったホームヘルパーを全員市の正規職員化していた。24人の市職員ヘルパーがいたが、堺市はこれを減らしながら、一方で大量の「登録制」ヘルパーを導入した。登録制といっても現在の介護保険のヘルパーとは違い、当時はヘルパー資格(訪問介護員研修・介護福祉士資格)そのものがなく、全くの無研修で、試験も不要で応募者全員を登録した。市の「非常勤職員」とは名ばかりで、派遣依頼がなければ収入はゼロ。職業というより主婦のボランティアという感覚であった。仕事を受けるときは市の福祉事務所から電話一本で対象者と訪問日時だけ指示されて訪問をはじめ、報告書を月1回郵送するだけという仕組みであった。業務会議がないので、同じ所属の福祉事務所でもヘルパー間の交流は一切なく、仕事に必要な物品は全部自分持ちで、健康診断もなしの「ないないづくし」だった。ヘルパーが病気や用事で訪問できない時は利用者と自分で調整して日・時間を変更し、調整できなければ病気を押してでも訪問しなければならないこともあった。まるで「請負業」のような無責任な制度だった。
ボランティアから「職業」へ
わたしは、1983年に1年だけ障害児のヘルパー担当になって、ヘルパーと同行訪問し、非常勤ヘルパーの話を聞き、「これは何とかしなくては」と思った。何人かのヘルパーと知り合いになり、ヘルパー担当を外れてからも彼女らと何度も話し合った。「ヘルパーは障害者や高齢者の生活の一部を制度として支える大切な仕事。不安定な請負業のような報酬付きボランティアでは期待に応えることはできない」。主婦のボランティアから「職業」として考えていこうという輪が徐々に広がっていった。
「ヘルパー交流会」をつくり要求活動始める
少人数の会合を繰り返し、わたしがこっそり手渡したヘルパー名簿をたよりに百数十人のヘルパーに郵送でアンケートを行い電話で参加をよびかけ、1985年9月にたった15人の参加だったが「ヘルパー交流会」を発足させた。翌年には、待遇改善に向け再度の郵送アンケートを行い、交通費の支給、エプロンや手袋の物品支給、健康診断の実施、会議や研修開催などを「要求書」にまとめ提出し交渉を行い、2年越しの1987年4月にようやく物品支給、月1回の業務会議、年1回の健康診断実施を実現した。制度化された介護福祉士にチャレンジするヘルパーも続々と出て、「専門性をもったプロのヘルパーになりたい」という意欲も高まってきた。しかし、堺市福祉部との交渉では、これ以上の進展は難しかった。「交通費支給は?」「休みたいとき代替は?」「訪問した時ケースが留守、その時の補償は?」「困難ケースとの対応で連携したいがその時間は?」このような要求に対し、当局は「登録制だから困難」との回答に終始した。
登録制から「固定制勤務」への移行を求めて
こうした経験を通じて「利用者に責任もってよりよいケアをするためには、不安定な登録制では無理」ということで一致するところまでになった。次なる目標は「勤務日と時間が固定した勤務形態」だった。わたしはこれを「固定制ヘルパー」と名付け、ヘルパーさんたちに提案した。こうして1988年からは、「登録制ヘルパーから固定制ヘルパーへ」がヘルパー交流会の目標となった。福祉部当局に「固定制勤務への移行」を要求し交渉しながら、並行して学習会を重ね、一人ひとりのヘルパーを交流会の役員が手分けしてあたり、呼びかけた結果、1989年12月には登録ヘルパーの8割以上にあたる131人が「固定制賛同」に署名し、圧倒的多数の要求となった。夫の扶養家族から抜ける問題は、当時の堺市非常勤職員がボーナスを含めて一定の年収水準を確保していたこともあって多くのヘルパーが乗り越えることができた。
ついに「労働組合」結成へ、固定制勤務へ移行
堺市福祉部当局も「固定制」移行の必要性を認め、新年度(1990年度)予算要求に盛り込んでくれた。ところが、1990年1月の予算案市長査定で落とされ、見送りとなった。落胆するヘルパー交流会のメンバーたちだったが、わたしにとっては「チャンス」だった。福祉部との交渉は「交流会」でも出来たが、堺市当局(総務部や財政当局)との交渉は労働組合を作って労使対等の「団体交渉権」を持たない限りできない。「今こそ、非常勤ヘルパーの労働組合を作ろう」。7年間の活動を経験しているだけに彼女たちの理解は早かった。「交流会でダメなら労働組合を作って固定制勤務を実現しよう」、この一点で、10人ほどの中心メンバーが駆けずり回り、わずか1か月後の1990年2月24日、134人の参加で「堺市非常勤ヘルパー労働組合」結成大会を迎えた。さっそく前年10月に発足したばかりの堺労連に加盟、堺市当局に結成通告を行った。当局には、組合の要求する「週3日」の固定制勤務が1990年度に実現できなかった代償措置として、登録制のままでも全員に週2.5日分の勤務日数を保障することを約束させ、1年間団体交渉を積み重ね、市に予算化をさせて、1991年4月から全員週3日の定日勤務のヘルパーとなった。非常勤ヘルパーの組織化を始めた当時、わたしはまだ20歳代の若造で、ヘルパーさんたちは40代、50代の人生の先輩たちだった。それだけに、「主婦のボランティア」からさまざまな経験を通して集団で「プロのヘルパー」へと成長し闘っていく道のりは素晴らしいものがあった。
介護保険のヘルパーの処遇改善を
その非常勤ヘルパーは、1990年代は堺市当局のヘルパー民営化を乗り越えて頑張ってきたが、2000年4月からの介護保険制度とそれに続く障害者支援費制度で市が全面的にヘルパー事業から撤退する中で転換を余儀なくされた。非常勤ヘルパー全員が要介護認定と障害支援区分認定の「調査員」へと職種を変えて市の中で生き延びた。堺市は市内で行う訪問調査は、新規も更新も在宅・施設を問わず、すべて市の調査員が直接実施している。
今から20~30年数年前のこの登録制非常勤ヘルパーの闘いを振り返って、介護保険のホームヘルパーの実態を見ながら、本格的なヘルパーの労働条件抜本改善の全国的な闘いの必要性を改めて痛感している。自宅から利用者宅への「直行直帰」の不安定な勤務形態では、労働者としての基本的な労働条件は制約があるし、職業意識も育ちにくいので専門性向上も難しいことは、堺市の非常勤ヘルパーの経験で実証済である。
介護保険スタート当初、「ハロー!コムスン」のテレビコマーシャルに象徴されるように一時期もてはやされ、「人気職種」となったホームヘルパーだった。当時30歳代のシングルマザーの方から、「登録ヘルパーで身体介護を目いっぱいやったら、水商売で働くよりも実入りがいい」と言っていた人がいた。ところが、政府の「給付抑制」と相次ぐ制度改悪、報酬切り下げで訪問介護事業所は深刻な人材不足に陥り、ヘルパーの年齢層は3分の1以上が60歳以上と高齢化している。政府は介護保険改悪の中で「軽度者の生活援助は無資格者で可能」との方針を打ち出している。主婦のボランティアへの逆戻りである。不安定な「登録制」から労働者の権利が守られ、自活・自立できる職業としてのホームヘルパーの確立。これが、在宅介護の基盤を確立するうえで何としても成し遂げねばならない課題である。
 堺市のヘルパー民営化に対して、「ヘルパー制度改善を要求して署名運動を取り組んだ(1996年)
2016/03/11 Fri
3月11日、今は大半は異動で変わったが、「南区」の仲間が、「新たな旅立ちを祝う集い」を開いてくれた。
そこで、いただいた表彰状。

今の職場には、本庁から16年前に飛ばされてやってきた。なんの取り柄のない、中年職員の私が、発足したばかりの区役所の介護保険係でやったことは「窓口には一番に出ていくこと」だけだった。
高齢者から、ケアマネジャーから大勢の人が毎日、介護保険の窓口にやってくる。「介護保険料が高い!」と怒る人や、家族が倒れて入院しているが退院を迫られて途方に暮れているご家族、「ヘルパーはこれやっていいですか?」と質問してくるケアマネジャーさんなど、多種多様で、1件の対応に1時間近く費やすこともある。
しかし、窓口での相談や苦情こそ、あらゆる源泉である。何もよりも実態が聴ける。介護保険制度の問題点が見えてくる。自分たちの裁量でどうにかなること、どうしようもないこともわかる。
どんなに事務仕事があっても窓口優先。これがわが南区の介護保険係の基本姿勢になり、みんなが争って窓口に出ていくようになった。
ケアマネジャー連絡会も地域包括支援センター任せにせず、区役所が開催する。他区でやっていないヘルパーの事業者連絡会も区役所が開く、ホームページには毎月の居宅介護支援事業所の「余裕状況」を更新して掲載する。ケアマネジャーが必要な情報はできるだけアップする、人員もおらずささやかであるが、係員みんなでつくりあげた小さな業務の工夫である。
制度が変わり、複雑になるとともに業務は増える、しかし職員は増えず、アルバイトさん頼みになる。職場条件が困難さを増すなかでも、よき作風は継続していきたいものである。職場を去るにあたっての最大の心残りである。
2016/03/10 Thu
3月9日夜、堺市職労の「退職者を送る集い」にお招きいただきました。私の公務員人生と堺市職労について振り返ってみました。
  私が堺市職労運動の第一線でがんばったのは1996年6月までである。それ以降4年間は仕事に埋没し、現在の職場に不当配転で本庁から飛ばされてからのここ16年間は支部の執行委員の末席で、活動といえば毎日職場で日刊の「堺市職労ニュース」を配ることくらいしかしていない。
1996年。あれから20年。懐かしい限りである。1980年代の非常勤職員の組織化と組合づくり援助、賃金闘争や労働戦線再編の組織闘争、1990年代は5年間 (1990年~95年)、大阪自治労連本部で専従もやって賃金闘争、労働時間短縮闘争に明け暮れた。
そして、1995年9月に堺市職労に帰り、10ヶ月間副委員長としてヤミ専従をしながら、勤務時間延長反対闘争を闘った。市長与党会派を敵に回し、特殊勤務手当廃止やヤミ専従攻撃など激しい労使間闘争となった。私の「徹底抗戦」路線は当時の堺市職労執行部からは受け入れられず、1996年6月に副委員長を辞任し、15年間の自治体労働運動からは身を引いた。
  今から思えば、当時の私は闘争至上主義で、「妥協せず闘い抜くことこそ階級的労働運動の使命」みたいな発想だったと、反省もしている。しかし、若かりしころ、悔いなく闘う舞台を与えてくれた堺市職労に感謝である。
2016/03/06 Sun
日下部雅喜の3月の講師活動予定
3月6日(日) 
 広島市中区地域福祉センター5階大会議室 介護保障を求めるひろしまの会・広島県介護労働者連絡会共催市民公開講座 「介護保険は今後どうなる?」
3月10日(木) 
大阪福祉事業財団うえるほうる 城東区社保協拡大学習会 「大阪市新総合事業案と介護保険見直し」
3月25日(金) 
和歌山市中央コミュニティーセンター 第10回和歌山市高齢者大会記念講演「介護保険見直しと高齢者」
3月29日(火) 
大阪民医連会議室 大阪民医連介護職員学習会 「新総合事業と民医連事業所の課題」
Category: 活動日誌

プロフィール

福祉・介護オンブズマン管理者 日下部雅喜(くさかべまさき)

Author:福祉・介護オンブズマン管理者 日下部雅喜(くさかべまさき)
 福祉・介護オンブズネットおおさか事務局長
 介護保険料に怒る一揆の会事務局長
 大阪社会保障推進協議会介護保険対策委員
 
 

月別アーカイブ

ブロとも申請フォーム

ブログ内検索