2013/10/05 Sat
 講師を依頼され土日に予定されていた「介護ウエーブ沖縄集会」が台風接近のため中止となった。9月29日の堺市長選挙後の1週間は、翌日からケアプラン点検問題の会議、介護保険料問題3団体会議、そして介護保険料に怒る一揆の会ニュース作成、同世話人会など、睡眠時間もとれないくらい忙しかったので、この土日は、自宅で堺市長選挙中にほったらかしになっていたことをかたつけながら、少し堺市長選挙を振り返ることにした。

 なぜ勝てたか。「堺はひとつ」でたたかったからである。

 なぜ、そのような「堺はひとつ」のたたかいができたか。考えてみたい。

 第1は、堺の歩んできた歴史と大阪の関係である。

 今年6月結成された「堺はひとつ 市民の会」はこうよびかけ、署名運動をはじめた。
 私たちが守りたいのは、「堺というもの」です。「役所」や「議会」なんかではありません。何百年の歴史がある、堺の町衆たちが守り、発展させてきた、この「堺というもの」、 これを守りたいのです。
「堺というもの」を守り、発展させるために、「政令市」は、ものすごい武器になります。
「堺っ子」は、何百年の歴史を経て、やっとこれを手に入れました。
 このおかげで、普通の市にはない、色々な権限と財源を手に入れました。
 つまり、他の市にはできない、まちづくりや産業振興、子育て支援や教育の充実などの身近なサービスを 自らが考え、実現できる、「強い自治の力」を手に入れたのです。
 でも、都構想になれば「堺というもの」は、「大阪というもの」に取り込まれ、 そして私たちは、自治をなくしてしまうのです。
 そうなれば、私たちの子どもたちは、自分たちのことを 「堺っ子」と呼ばず、「大阪人」と呼ぶようになるでしょう。
 私たちは、そういう未来を、絶対に避けたいと考えています。
これからも、この「堺というもの」を子どもたちや孫たちに引継ぎ、 発展させていってもらいたいと思っています。
「堺はひとつ! 堺を無くすな!」
 私たちはこのことを堺市民の皆様に訴え、「堺はひとつ」運動を広げて参ります。


 ここで、「大阪というもの」に取り込まれることを拒否して、「堺というもの」の自治を守るという「堺人」の熱い思いが伝わってくる。
 中世の日明貿易、南蛮貿易で栄えた「自由・自治都市」堺は、豊臣秀吉による大坂築城と城下町建設によって、その地位を失い「大坂」という巨大都市・「天下の台所」に付随する衛星都市へと転落した。

 私ごとになるが、私が堺市役所に就職した1979年の前年NHK大河ドラマで「黄金の日々」をやっていた。戦国時代、自治都市・堺と呂宋(ルソン=フィリピン)の交易を開いた商人・呂宋助左衛門こと納屋助左衛門の物語で、自由で活気に満ちた堺に生まれ、南蛮交易を夢見た青年が大海に乗り出し、やがて豪商となり権力に立ち向かう姿を描きながら、庶民の視点で戦乱の世をとらえた作品である。
 堺市の職員採用試験での面接で、岐阜県出身で大学も名古屋市内だった私は、「なぜ堺市を志望したのか」と質問され、「『黄金の日々』を見て感動しました」と答えた。面接担当職員は苦笑していたが、なぜ苦笑していたかは堺市役所に入ってからよくわかった。
 当時の堺市は財政危機で、私の採用される前5年間は新規採用をストップしていたほどであった。「昔黄金の日々、今赤字の日々」などと言われた。
 また当時の堺市は合併を繰り返し泉北ニュータウン開発などで80万都市になっていたものの、「大都市」とはとても言えない内実であった。
「堺市の全体像は、ひとくちでいうならば、『統一なき分裂都市』ということでありましょう。中世の堺のように、『商人の自治都市』と表現できるような統一したイメージがありません。(中略)堺市は地方においておけばせいぜい人口10万人ぐらいの都市機能しかもたぬ小都市と住居群のあつまりにすぎません。それは堺市が衛星都市であるためです。人口が同一規模の広島市や仙台市とくらべてみるべきです。いや、もう少し人口の少ない熊本、岡山、金沢などの諸都市とくらべてもよいでしょう。行政的、文化的、商業的、金融的な都市機能の面で、全くこれらの地方中心都市にみおとりがします。堺市は(略)のように、管理機能、金融的機能はきわめてみおとりがする、いわば巨大なベッドのごとき状況なのです。『大飯場』といってよいかもしれません。」(堺市政白書~コンビナートとニュータウン開発の結果 1976年 宮本憲一監修)
 
 私は、堺市職員となって間もないころ読んだこの「市政白書」の「統一なき分裂都市」「せいぜい人口10万人ぐらいの都市機能しかもたぬ小都市と住居群のあつまり」という分析は、大きなショックであるとともに、「まさにそのとおり」と納得せざるを得なかった。

 これは、戦後の堺市が、大阪経済界、関西経済界活性化に利用されつづけてきた歴史からきている。高度経済成長期は、堺泉北臨界コンビナート開発、泉北ニュータウン建設に象徴的なように、大阪経済界の活性化に堺が利用されれ、堺の保守勢力も大阪の動きに乗じて「堺市の発展」を図ってきた。「50万都市構想」「100万都市構想」がそれであり、人口だけは大都市になった。
 さらに、バブル経済期とその後も、大阪経済界は、関空を泉州につくり大阪、関西の国際化を図るという戦略で、堺の保守層や経済界も関空に乗じて堺でプロジェクトを実施しようとしてきた。
 この大阪財界、関西財界が自らの活性化に堺を利用し、堺の保守勢力や経済界もそれに追随することで自らの活性化を図る、これが戦後の堺市の歩みであった。それによってもたらされたものは、白砂青松の海浜の消滅、環濠の消滅と公害問題であり、「統一なき分裂都市」であった。

 そして今回の、維新の会の「大阪都構想」は、大阪財界にとっては、堺の「最後の利用」というべきものであった。大阪中心部の開発と大型公共事業などに堺を「利用」するために、政令指定都市としての権限と財源を奪うだけでなく「自治体」としての堺市も解体し分割したうえで「特別自治区」としてしまうものであった。
 これには、堺の保守層や経済界も困り果てた。これまでのように大阪に追随しようとしても、「堺市の廃止・解体」をもたらすような大阪都構想では、自らも「消滅」してしまうためである。
 400年以上前の「黄金の日々」へのあこがれをもちつつ、大阪財界に追随してきた堺の保守勢力は今回の選挙で歴史的帰路に立たされたのである。
 
 第2は、竹山市長の存在と立場である。

 4年前の堺市長選挙は、橋下大阪府知事(当時)が、WTCへの府庁移転が府議会で否決され八方ふさがりになっていたとき、既存政党と対決したはじめての勝負であった。ここで勝利がばねとなって、府議会の力関係が変わり、自民党からの脱党者が相次ぎ、「大阪維新の会」の結成へと突き進むことになった。また、大阪府内の自治体首長たちも橋下の放つ「刺客」をおそれ、維新おそれるようになった。その維新の旗印が「大阪都構想」であった。
 竹山市長は、橋下府知事の全面支援で市長になったものの、2010年1月に大阪都構想が発表されたときも「賛成」していないし、その後できた維新の会にも加わららなかった。
 そして、その竹山市長が、府市ダブル選挙後の2012年2月、協議会への参加を明確に拒否し、堺市の不参加を明確にしてきた。そして、市長選挙の近づくと、全国の政令指定都市市長や府内の自治体首長にも「反大阪都構想」の共同戦線を呼びかけるようになった。 
 私は、生意気にも一介の職員でありながら、2011年1月の本ブログ「大阪都構想から自治都市・堺をまもるために」 で
「堺市と堺市民」が大事なのか、「生みの親」である橋下知事との関係が大事なのか。竹山氏が本物の堺市長になるためには、橋下知事と維新の会に決別宣言をするべきである。
 と書かせていただいたが、その1年後の府市ダブル選挙直後という「橋下維新絶頂期」に、橋下市長・松井知事両氏を前に「堺市不参加」を敢然として宣言されたことは実に勇気ある行動であった。
これでこそ堺市長! 
独立と自由ほど尊いものはない  
 そして、今回の市長選挙でのみごとな闘いぶりである。私ごときの者が言うのもおこがましいが、2年半前での非礼をお詫びしつつ「この市長でよかった」と日々思った市長選挙であった。
 竹山市長は、私のようなよそ者とは違い、生粋の堺っ子であり、聞くところによると大学卒業後、堺市役所に就職しようとされたが職員募集をしていなかったため府庁に就職されたとのこと。さらに、前回市長選挙の4年前にも市長選挙への出馬を検討されたとのことである。
 かつて橋下知事の「部下」で、最初の市長選挙での「恩義」があっても、堺市と堺市民のために決然と維新の会と対決する。現職市長のこの姿勢が、堺市民の「堺はひとつ」の歴史的共同を生み出すうえで大きなよりどころとなった。
 
 第3は、かつてない「市民的共同」である。

 今回の市長選挙は、実にたくさんのグループや市民、団体が重層的に参加し、「勝手連」も数多く活躍した。「堺はひとつ」は二つの意味がある。一つは「堺市の分割を許さない」というもともとの意味、二つ目はその堺をまもるために「みんながひとつになる」という市民的共同の合言葉である。
 いち早く、2011年「大阪都構想から自治都市・堺を守る会」を立ち上げ、自民元市議の方をはじめ多くの方々の参加で5回のシンポジウム・フォーラム、7区全てでの「つどい」開催、「堺はひとつ」アピールなどを取り組んできた私たちの活動が運動の火付け役になったことはまちがいない。
 
 そして、市長選挙が近付くにつれ、竹山連合後援会とは別に、今年6月に 自治連合協議会や各種団体を総結集した「堺はひとつ 市民の会」が発足し、堺はひとつ運動は大きく広がった。
 さらに、共産党や民主団体、市職労などでつくる 住みよい堺市をつくる会は 今年8月に「堺はひとつ」の立場で「自主的支持」を決め、選挙戦をリードする大活躍を行った。
 さらに、革新無党派を含む多様な人々が参加する「堺大好き 堺っこアクション」もユニークな活動を繰り広げた。 
 まさに、「大阪都構想」という脅威から「堺を守る」の1点で共同が広がった歴史的選挙であった。
 「堺はひとつ」運動の中心になった山口典子市議は、
「新しい市民運動のウエーブの誕生です。堺市民が政党の枠や団体の主義主張を超えて『堺はひとつ』という一点に結集した。これは堺市民の、自由都市・堺のDNAです。新しい境地を開きました」
 と語っている。堺市民は「この堺はひとつ」で維新と大阪都構想に勝利した経験で 新しい「共同」を生み出したと言える。

 ところで、堺市には、30歳代前半以下で堺市内の小学校出身の人ならだれでも歌って踊れる「堺っ子の歌」「堺っ子体操」というものがある。
 みんなつながる堺っ子体操
 その歌詞の3番に
嵐がきたって 平気だぞ 
 グーンと背伸びして 
 仲間は輪になり 助け合う 
 一二 一二 一二三 と立ち向かう
 堺っ子は 元気な子 
 僕も 私も 
 今日から あしたに ホップステップジャンプ
」とある。 

 維新・大阪都という「暴風」に、みんな輪になって立ち向かった 堺っ子が
 あしたに向かって ジャンプできるか は これからの 市民共同の運動、そして 各分野の活動にかかっているだろう。

 市長選挙を通じて、「堺はひとつ」の市民意識はかつてなく高まった。「大阪に飲み込まれない」という意識は、「堺ナショナリズム」とよぶべき気分感情さえ生みだし、中世に失った「自由・自治都市」の再生を望む声も高まっている。
 豊臣秀吉によって、「黄金の日々」を奪われた堺が、400年以上たって再び その誇りと自治意識を取り戻すのかもしれない。かつての環濠都市・旧堺地域だけでなく、「堺はひとつ」の合言葉のもと、「大堺市」が一つにまとまった。

 ただ、自由・自治都市の「現代的再生」の方向は定まっていない。まさにこれからである。

 この選挙を通じて私が堺市職員として30数年来いだいていた「コンプレックス」が消えた。

 少なくとも私は、堺市職員として、この堺を「統一なき分裂都市」などとこれからは蔑むことはぜったいにしない。

 大阪市長と大阪府知事を 先頭に強大な勢力を誇る維新の会に、「堺はひとつ」の合言葉で立ち向かい、大阪ではじめて打ち勝ち、大阪都構想から見事に堺市存亡の危機を脱した堺市民がいるのだから。

 豊臣秀吉に切腹申しつけられ死をもって抗った千利休以来の歴史にのこるのが今日の誇りある堺市民たちである。このような堺市民のために働けるのは自治体職員の端くれとして幸福なことではないだろうか。
 堺はもはや「統一なき分裂都市」なんかではない。
 「堺はひとつ」である。 

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Category: 堺市政問題
 
 
 
 
 
 
 
 

プロフィール

福祉・介護オンブズマン管理者 日下部雅喜(くさかべまさき)

Author:福祉・介護オンブズマン管理者 日下部雅喜(くさかべまさき)
 福祉・介護オンブズネットおおさか事務局長
 介護保険料に怒る一揆の会事務局長
 大阪社会保障推進協議会介護保険対策委員
 
 

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